Academics are being harassed over their research into transgender issues
It is not transphobic to investigate this area from a range of critical perspectives, say 54 academics who are also concerned about proposed changes to the Gender Recognition Act
(以下省略)
こちらの英紙ガーディアンの記事を翻訳しましたので紹介します。
ジェンダー認識法の改正案について憂慮している54人の学者たちは、この分野を批判的観点から調査研究することは「トランスフォビック」ではないと述べる。
私たちは新しく形成された100人を越す学者たちのネットワークを代表しています。その成員の殆どが、現在英国の大学で雇用されています。私たちは学術的な観点から、ジェンダー認識法の政府改革案及び平等法との相互作用について懸念しています。
私たちの対象分野は以下を含みます。 社会学、哲学、法律、犯罪学、エビデンスインフォームドポリシー(証拠に基いた方針)医学、心理学、教育、歴史、国語、社会活動、コンピュータサイエンス、認知科学、人間学、政治学、経済学、そして美術史。 今週、ウインターボーンのニコルソン男爵夫人から申し出のあった機会を受けて、私たちは各自性別再割り当てのためのセルフID導入に対する懸念を概説した書簡を提出しました。
私たちはまた、トランスジェンダリズムの社会現象についての適切な学術分析及び議論の抑制と、その多面的原因と影響について、懸念しています。 私たちのグループのメンバーは、大学構内での抗議、解雇呼びかけ、嫌がらせ、解雇に持ち込むように企てられる策略、ノープラットフォーミング(危険思想を持つ人物を排除するスローガン、この場合大学教授なので教壇に立たせるな運動)そして学術研究や出版物の検閲などを経験しました。そのような攻撃はアカデミーにおける批判的見解の通常の反応と一致していません。意見の相違はもっともなことで、実り多いものでさえあると、通常なら認められているのに…
私たちの大学の多くは、学者や経営陣に「研修」を提供するトランス支持組織との密接な繋がりがあります。そしてこの組織はこれらの繋がりを通して、大学の政策に影響を及ぼしていると考えるのが妥当です。トランス支持組織によって「トランスフォビック」と見做されている定義は、危険なほど対象範囲を広げることが出来、理に適った法律が描く内容をはるかに超えたものです。彼らはアカデミックな分析には耐えられないでしょうが、それでも学問の自由を削減して学術研究の検閲を促進する効果がある。また、AHRCやESRCなどの政府機関からの論文投稿や研究助成金申請の成功率に対する、そのような定義の影響についても心配しています。 私たちは、批判的な学術的観点からこの分野を調査分析することは「トランスフォビック」ではないと主張します。
我々は、この研究は究めて必要なものであると考えており、そのような研究をイデオロギーによる攻撃から保護するために、政府が率先して取り組むよう強く要請します。
以下学者の署名が続く・・・(省略)
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以上です。
このようにイギリスは日本と比べるとトランスジェンダーの性別変更に関して先を行っており、批判意見を封じ込めようという動きも活発ですが、しかしながらまた、言論の自由もこのように確保されています。
日本はどうでしょうか?
記憶に新しい所ですが、社会学者の千田有紀氏が現代思想に寄稿した論文について、ツイッター等で批判が殺到しました。千田氏は別にトランスジェンダーの方達を差別している訳でもなく、セルフID制に反対している訳でもないにもかかわらず…です。
「トランス女性は女性です」というスローガンに少しでも異を唱えることは「悪」として葬り去るべきなのですか?
オリンピック女子競技に男性器のついたトランスジェンダーが参加することに対し、問題であると指摘することは「悪」ですか?
学者の役割とは「差別をなくそう」と叫ぶことでしょうか?
もちろんそれも大事ですが、そういうことは本来人権活動家のやることです。
将来にわたる社会的影響を考察し、例え外部から批難されても左右されず、学術的観点からの研究を続けるのが学者の本分ではないでしょうか。
残念ながらトランス問題で「トランス女性は女性です」に対し疑問を呈すツイッターアカウントに対し「しばき」を依頼する学者が本邦にはいます。
しかしながら生得的女性の観点から女性の定義変更について意見を述べたり、また、スポーツにおけるトランス女性参加問題に関して持論を述べることさえ認められないとするならば、「言論の自由」はこの問題については既に無くなったと言えると思います。
生得的女性は「女性」当事者です。当事者が自分たちの定義について議論したり、自分たちの専用スペースについて議論することは当たり前のことです。
なにしろ、多くの先進諸国において「性別を自認の性に変更可能」という概念は、人類歴史上においては極めて最近のことであり、したがって、この影響が将来的にどうなるのか、未来永劫このような性別変更制度が人類歴史の中で認められていくのかは不透明な訳ですね。