トランスヒューマニズムと、ノアの時代
我々人類は、何故救われる必要があるのか?
この命題に対し、ズバリ明確な回答を与えている素晴らしい動画を見つけたのでシェアします。
人生には不条理な事が嵐のように押し寄せます。
地震大国・日本に住んでいる我々日本人にとっては、尚更そう感じられますよね。
生きる事自体に疲れ果て、この世に絶望して惰性で生きている、そんな人が多いのではないでしょうか。
私もかつてはこの世界に絶望しきっていました。
死んで消えてしまえたらいいのにと切望した時期は長かったです。
しかし、死んだら死んだで、更に悪い事態になるのではないかという恐れがありそれ以上のことに踏み切る勇気はありませんでしたが、この世とは一体何なのだろうかと、幼い頃からずっと考え続けてきました。
どんな人間においても平等なのは、誰しもいつかは必ず死ぬ事、これだけ・・・
しかし本当は、「死」こそが人類にとって異常な状態だったのです。
本来の人類とは、永遠の命を持つ、輝かしい存在でした。
私達がこの世に生まれて来た目的はただ一つ。
「神と和解する事」だったのです。
「神と和解する方法」とは、本当に単純なことなのです。
前回の記事で書いた通り、イエスキリストが十字架で成し遂げられた事、イエス様が我々を買い戻す為に流された血に対して、心から信頼を置く事、これだけです。
これ以外には何もありません。何も、です。
もちろん罪を犯さず日々、世の為人の為に働く事は良いことですし、そうすべきですが、善行が救いの道ではありません。
心から信じる事・・・これが、実は説明するのも非常に難しいのですが、日本語で「腑に落ちる」という表現がありますね。まさに、これなのです。
五臓六腑に染みわたって救いを確信する状態、これこそ、信仰が確立した状態です。
一度、腹の底からそう信じたなら、救いを取り消されることはありません。
牧師の後に続いて、牧師の言う通りに救いの文言を唱えれば救われる・・・のではありません。
「腑に落ちた」状態まで落とし込んでください。それが、救いの確信です。
ヘブライ人への手紙 9:22より
血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。
我々日本人の場合、昔の日本の「切腹」を思い出して貰えればイメージし易いと思います。
古今東西、重大な罪を犯してしまった場合は、やはり血で償われなければ、皆の感情を納得させるものではなかったでしょう。現在でも、あまりにも酷い凶悪犯罪には死刑を宣告せざるないですよね。
本当に本当に重要なのは、我々人類の救い主がイエス・キリストであるということと、イエス様が我々人類一人一人の為に流された「血」への信仰です。
ローマ人への手紙 3:25
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。
キリスト以前の旧約聖書の時代では、動物の生贄の血が便宜的に人類の罪を覆う方法でしたが、ここで一つ、考えてみてください。
動物もまた、神様が創造されたものであり、結局、旧約時代の生贄の動物も、神様ご自身が人類の為に用意されたものでした。
つまり昔も今も、全てを神様は予め備えてくださっているのです。
すごいことですね。
あとは、我々がそれに応答するだけです。
トランスヒューマニズムは、人類への新たな福音か?
ところで、日本において、大患難時代の到来に備え、切迫感を持って福音を宣べ伝えようとしているキリスト教会はどれくらいあるのでしょうか。
現在は、加速度的におかしな時代になってきたと実感しますが、日本の教会では相変わらず「神は愛」という、平時の説教に終始している感が否めません。
例えば、『聖書で預言されている、10人の王がまだ現れていない・・・従って大患難時代はまだまだ先だ』的な、楽観的解説をされていた牧師がおられましたが、今の時代、10人の王が、必ずしも目に見える国家の、大統領や国家元首であるとは言えないのでは?と思います。企業体の長がその中に含まれるかもしれないし、そもそも人間ですらない表には決して姿を現さない存在なのかもしれません。
日本政府の内閣府ですら、思わず目を疑うような、ムーンショット計画なるものを発表している時代です。
我々自身の身体、脳、それ自体が、新たな市場の争奪戦になりつつある訳です。
人類が滅びてしまわない前に、もう少し、日本のキリスト教会も危機感を持って欲しいものです。
ノアの方舟と大洪水伝説
さて、大洪水から助けられた「ノアの箱舟」の物語のノアは、正しい人だったから洪水から救われた・・・普通、この「ノアの正しさ」とは、義人中の義人、善人中の善人、という意味で最も優れた人だったというのが一般的理解ですが、本当にそうだったのでしょうか。
大洪水前の世界も、現代と劣らぬ、いや、それを遥かに上回るテクノロジー社会だったのではないかと私は思います。
堕天使と人間の女性とのハイブリットである巨人ネフィリムがそこらじゅうを闊歩し、遺伝子組み換え的技術開発が蔓延し、滅茶苦茶になった世界。
だから、神はご自分が創造された被造物とは別物になってしまったモノを見て、深く悲しまれ、ついに大洪水で一掃することを決意される。
そして一旦地球はリセットされましたが・・・
現在、ノアの時代と全く同様の危機が訪れようとしているのではないですか?
では、同様の危機は、一体いつからはじまったのか?
推測するに、水が引いて人類が活動し始めるのと同じく、闇の勢力もまた活動を開始したのだと思います。
神はアブラハムに約束の地カナンを与えると約束された。
そこに先回りして闇の勢力は、遺伝子異常の巨人族のコロニーを作った。
だから、聖書に書いてある通り、エジプト脱出後、約束の地を得る為に、神の民はこれらと戦うことになります。
民数記13:30~33
カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」しかし、彼と一緒に行った者たちは反対し、「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と言い、イスラエルの人々の間に、偵察してきた土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」
もしも、イスラエルが征服していった先住民たちが、普通の、我々と変わらない人間だったとしたら、彼の地の民を幼子にいたるまで全て聖絶せよという命令は、単なる民族浄化、虐殺ですから、「愛の神」という創造主のご性質に反し、矛盾が生じています。
論理的に筋が通らない事を、信じることはできません
つまり大洪水後、一旦邪悪な企ては全て消え去りましたが、我々を何とかして神の救いから永遠に断ち切りたい闇側の工作は、洪水後直ちにはじまり、今日までずっと続いているのだと思います。
そして今、AIやナノテクノロジーの進歩によって、まさに「ノアの時代」が再来しつつあるのだと・・・
敵の狙いは、我々人類が、神の救いを受けられないように、神が創造した人間とは別物にしてしまうことなのです。
○○をすれば、あなたは永遠の命を手に入れることが出来ますよ、と。
どうか騙されないでください。
ヨハネ14:6
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
使徒言行録4:12
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエスキリスト)のほか、人間には与えられていないのです。
キリストの福音の真の意味
こちらも、心からおススメする動画です。
私たちは、皆、創造主である神を父に持つ放蕩息子・放蕩娘なのです。
神である父は、家族の回復を願って、あなたを戸口で待ち受けています。
あなたが戻ってきたら、神は必ず、大喜びで迎え入れてくれます。
今こそ、神の家族へと戻りましょう!
大洪水の時のように、救いの扉が閉ざされてしまうまでの時間は、もうほとんど残っていないと思います。
サッカーの試合に例えると、もう本試合は終わり、ロスタイムに入っている頃かと思われます。
信じた者は、これから起こる神の怒りが降り注ぐ大患難から救われ、神の家に携挙という形で逃れることができますが、タイムリミットを越えてしまえば、7年間の大患難期に入り、イエスの再臨まで壮絶な戦いを強いられることになるでしょう。
そのような目に誰も逢うべきではありません。
救いの扉が閉ざされる前に、是非イエス・キリストを自分の救い主としてください。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。
神は、全ての人を救いたい
神は、すべての人を招いておられます。
特定の選ばれた人達だけが救われるのでは、絶対にありません。
どんな人でも、たとえ今まで何一つ善い行いをしてこなかった人でも、キリストの福音を信じれば、その瞬間に、神の目に義とされ救われます。
救われる者も、信仰に至る者も、地獄に落ちる者も神は予め定めているというカルヴァンの予定説なるものは、従って、完全に間違っています。
「神は愛そのもの」と説く一方、選民思想丸出しのカルヴァン主義を無批判で受け入れたりと、理論構築が滅茶苦茶な教会から人が離れていくのは、仕方がないことなのかもしれませんね。
コロナ時にも、日本のキリスト教界には失望させられましたが、
建物の教会が教会なのではなく、信じる者、一人一人がキリストの体を形作る教会なのです。
どうかが、ひとりでも多くの人が、大患難を通らずに救われますように。
祈ります。